浅井父子、放浪の軌跡

 元妙信講は浅井甚兵衛らが中心となって昭和16年に結成された講中であります。

 浅井甚兵衛の教化親は、今は亡くなられましたが白須郁三という方で、この折伏により入信しました。それは昭和5,6年のことでした。当時、白須氏は、妙光寺の熱心な御信者であられましたので自然に浅井甚兵衛も妙光寺の信徒となりました。ところが浅井甚兵衛は、事業の失敗から夜逃げにつぐ夜逃げを繰り返し、信心どころのさわぎではなく、ついにその行方は教化親の白須氏でさえもつかむことが出来ない状態になりました。

 そのうち、昭和7年に当時の妙光寺御住職有本日仁師の尽力によって豊島区に妙光院(現妙国寺)という教会が設立されました。それにともなって妙光寺の信徒の幾分かは妙光院に移ることとなり、白須氏も妙光寺を離れ、妙光院の信徒になられました。そこで白須氏は講頭となり、当時の御住職大石菊寿師と共に、信徒の拡張を計ったのです。そこで白須氏は、かつて自分が折伏した浅井甚兵衛も立派な信者にしなくてはと思い八方手を尽くして夜逃げ先をあたりましたところ、信心活動こそしていませんでしたが退転することなく、妙光寺に所属していた講中の一つである、鈴木作次郎氏の率いる目白講に所属していることがわかりました。そこで白須氏は浅井甚兵衛の当時の住居が妙光院に近くもあるし、教化親の自分が妙光院の講頭をやっているので、手元において指導した方が良いと考え、妙光院住職大石菊寿師に御相談申し上げ、目白講に頼み込んで、妙光院の信徒にしたのであります。

 そこで甚兵衛は御住職の薫陶をうけ、白須氏をはじめ、やはり妙光院の信徒でありました内山ワカ氏等の暖かい指導の下に正宗信徒として成長していったのです。その功徳により仕事の方もかつてのように夜逃げをしなくてもいいようになり、段々順調にゆくようになってまいりました。それと同時に教学も種々教わり、又、自分でも勉強し、正宗の法門を少しぐらいは言えるようになりました。

 ところが三世変わらぬを性というごとく、生まれ持った性格というのは恐ろしいもので、段々と増上慢と野心があらわれてきました。そして遂には教化親の白須氏に対しても「お前は、教学は私より下だ」とか言って馬鹿にするようになり、聞きかじった法門を自己流にひけらかしては講頭としての白須氏の面目をつぶすような事ばかりをするようになり、妙光院信徒の団結を乱すような行動をとりはじめました。そして是が非でも講頭の地位を得ようと思い種々の策謀を試みるようになりました。

 そこで住職も見過ごしできず、甚兵衛に対し、仏法の道理を話し、世間法の上からも甚兵衛のとっている行為は不知恩の者であるし、天狗になってはいけないと諭しました。ところが、全身これ増上慢の固りとなっていた甚兵衛は住職の真心こもる指導にも耳をかさず、剰え逆恨みし、住職の悪口さえ方々に行って吹聴するようになりました。そこでついに住職もサジを投げ、教化親の白須氏もあきれはててしまいました。しかし、妙光院の信徒は、住職を尊敬し、白須氏のもとに寺院発足の当時より盛り立てて苦労を分かち合った同志でしたので甚兵衛如きが食い込む余地もありませんでしたので、甚兵衛も妙光院の講頭となることをあきらめてプイと妙光院をとび出してしまいました。そしていつの間にか旧知の縁を辿ってチャッカリと妙光寺の信徒におさまりかえってしまいました。そこで同志を募り妙信講を結成し、永年の夢であった講頭の地位を確保することができたのです。

 しかし、当時は講頭といっても絶大な権力がある訳でも無く、わずか六、七名の平等の力を持つ同志の集まりでありました。しかし、念願の講頭という名を手に入れた甚兵衛は色々と手段を試み妙光寺で権力を振るうべく努力いたしましたが、伝統につちかわれた妙光寺の大先輩達にかなう訳がありません。妙光寺には当時、蛇窪、三ッ木、大平、独一、統一、正宗本門光、それに新進の目白講という強力な信徒の集団があり、それらを率いる講頭達は昨日今日のポッと出た者と違い信心強情であり、皆人望の厚い人々でありました。そこでまたしても、甚兵衛は自分の非力さを知らされ、挫折の念に襲われたのです。








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元妙信講問題について