妙光寺から法道院へ

 しかし異常な程野心の強い甚兵衛は屈することなく妙光寺をとび出し、当時新進気鋭の集団でありました法道院に目をつけたのです。昔、妙光院時代に世話になった内山ワカ氏が妙光院を離れて法道院の信徒集団である本因妙講に属していたのも渡りに舟でした。法道院は現総監早瀬尊能師の下に一致団結し広布に邁進しておりました。そこに甚兵衛達妙信講員十名ほどが加わることになったのです。妙信講員一人一人が素質はある人達でありましたので法道院主管も目をかけて教学も手取り足取り指導致しました。

 当初は妙信講員もこれに応え、本因妙講、妙道講、実浄講等々ある中で、妙信講の勢力は次第に拡張していったのです。当時法道院は主管自らも折伏に加わり、在勤しております青年僧侶も、在家の人々と共に勉強しながら折伏に飛び出していっておりました。僧侶と信徒と一致団結して地方を廻り、拠点から拠点へと折伏闘争に邁進する中で、実践派としての教学や先方を妙信講員一人一人も、各講に属する人々も教えられ、身につけていったのです。そうした中で甚兵衛の息子の昭衛も、はじめ素直に主管及び先輩の指導をきき信心も成長して行きました。勉強会等でつけた教学力も次第につきこのまま成長すれば立派な信者になると思い主管も大事にしたのです。

 ところがいつしか父甚兵衛ゆづりの権力欲、野心までも急激に成長させていってしまいました。おまけに父親の悪い血をそっくりと引き継いでいますので天才的な嘘つきとなりました。その天魔の力といいますか、口から鉄砲玉のように出てくる格好のいい言葉や、浪花節かたりも顔負けするハッタリの演技は次第に法道院青年部を魅了するに至りました。

 しかし、主管としては、素直に成長してくれているとばかり思っていましたので妙信講の発展に力をかされ、妙信講の発展は法道院の発展と思い各々の講に執らわれることのない法道院信徒団体育成という大義を中心に指導されたのです。ところが父子二代に亘る権力欲は実は甚大につちかわれ、浅井父子は法道院などどうでもよく自分たちの妙信講の勢力拡張だけの為に頑張っておりました。その為に他の講中の面々をライバル視し、他の講中の講頭すら蹴落とそうとしました。例えば、妙信講の次に勢力をもっていた本因妙講の講頭に対しては、甚兵衛の心酔者であった亡くなった妙信講の某氏を使い、本因妙講の講頭が、当時、法道院で増築していた御宝蔵の責任者であった事に目をつけ、その会計に不信があるとの口実で「賄賂を業者からもらっているのだろう」とか「水増し請求させているのだろう」と下司の勘ぐりともいうべき中傷を加え、失脚をもくろみました。その本因妙講の講頭は、万人が認める、清廉潔白な方で、主管もその人望を充分御信用なされておりました。その講頭はもう亡くなられましたが、死ぬまでそのくやしさを忘れることはできませんでした。


 このように特に金に異常なきたなさをみせるのが浅井父子の当時のきわだった特徴でした。そうして権謀術数をもって妙信講の法道院内部での勢力は増し、法道院七支部の内三つまでも支部長を選出するに至りました。しかしこれは、浅井の力ではなく、それ程妙信講には人材がひしめいていたということです。それに父に輪をかけた天才昭衛もまだ青年であり、今日の様に浅井あっての妙信講ではありませんでした。むしろ、副講頭の方達の方が力はあったそうです。

 それらの妙信講の基盤のもとについに甚兵衛は法道院講頭の地位を手中に収め、甚兵衛の妻が婦人部長、昭衛が青年部長という浅井一家の春を迎えたのです。そこで持って生まれた増上慢を一気に爆発させたのです。この頃になると、主役は次第に昭衛に移り、甚兵衛は脇役となってまいりました。親孝行な昭衛は、甚兵衛の永い間の権力欲と野心を満足させようと頑張りました。

 しかし、法道院は主管の力が絶大であり、いくら逆立ちしても主管には勝てません。甚兵衛とても主管の御講の説法のあとで、せいぜいその話の内容に嫌味を言うぐらいがせきのやまでした。

 だが、腹の中は完全に自分たちが偉いという増上慢でいっぱいでした。その頃の法道院は寺院規模も整っておらず、年々創価学会の折伏活動、自支部の折伏活動でふえる一方の信者の方の収容ですら満足にできないものでした。会合にしても婚礼の控室にしても、他の法要の控室も全て本堂で行わざるを得ない状態でした。故に主管はその充実をはかるべく増築を重ね、昭和32年に二回の建造を計画されました。それをきっかけに浅井父子の法道院での権力拡大の策動が始まったのです。









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元妙信講問題について