法道院から妙縁寺へ

 
 それまでチャンスをうかがっていた父子は、その二階の増築問題にいんねんをつけることによって主管の主導権を奪おうと真向うから対決を挑んでいったのです。それは増築に当っての会計一切を自分達にゆだねろというのです。銭に卑しい浅井の考えそうなことですが、それは主管の金銭の用い方に対して露骨に疑ぐる様な態度でした。僧侶に金をまかせておけないという様な浅井の申し出しに対し、さすがに主管も勘忍袋の尾を切られました。何故に一信徒が寺院の最高責任者である住職に対し財政問題に口をはさむ必要があったでしょうか。況や、法道院の発展の為に毎日、血みどろになって戦ってこられた主管の生き方は浅井自身が誰よりもよく知っていた筈です。

 昔信徒の代表達が集って本山に対し御供養の会計報告を求めようとした時に、当時の創価学会会長戸田城聖先生が、“信者は御本尊様に対し御供養した金銭について、口をはさむ必要はない。御僧侶が信者の御供養を何んに使おうと、我々が御供養したこととは関係がない。御本尊様に御供養するという根本精神がかけている”と一喝され、御供養の精神について話されたことがありましたが、銭に執着する浅井父子は、御供養とは設備投資という感覚に立っておりました。今日でも身上調査は浅井父子の得意中の得意ですが、その時はそれを露骨に出してきたのです。

 その時、妙信講員五名で主管にその申し出をしましたが主管はさすがに憤慨され、一言も発せずに奥に引き込まれました。しかし翌日、今迄ねちねちと増上慢の行為をちらつかせてきた浅井に対し、ハッキリと僧侶の生き方を申すべく浅井に電話されて“自分についてこなければそれで結構”という最期通牒をされました。そこで増上慢の甚兵衛はいきり立ち、昭衛の天才的な嘘つきの才能がフル回転されたのです。自講中に対しては、主管があたかも布教を捨てたかのように“今度、主管が庫裡を増築しようと思い何千万という大金を集めようとしている。今はそんな寺ばかりをよくする時ではなく広宣流布の戦いの方が先ではないか”と問題点を巧みにすり替えて宣伝し始めました。その煽動が巧妙であったため何も知らない講員は浅井の説に紛動され、主管をそのような目で見始めたのです。

 その時、甚兵衛の人望だけならば、講員はそうまで紛動されませんでしたが、妙信講の人望ある、幹部までも浅井の説に言いくるめられていた為に法道院講中は、浅井の説に同意を示す者が大半を超えました。しかし、主管は、知る人ぞ知る、信徒と争う姿をとりたくないとのお考えからあえて一言の弁解もせず、解かる人はわかるであろうとの立場に立たれました。そのいさぎよい態度を天才的嘘つきの昭衛はかえって利用し卑劣にも小さい頃より慈父として薫陶して下さった恩を一切忘れて、主管の人身攻撃を始めたのです。
 
 その内容たるや、到底普通の信者の方では想像もつかないような彼一流の卑しい発想に基づく、聞くに耐えない内容でした。しかも、それらを口づてに自分の部下を使って流させたのです。昭衛の手口は今日でもなりふり構いませんが、何んとその当時、甚兵衛、昭衛とも生涯のライバルとして目の敵としていた、創価学会の故戸田先生の処までも、主管の人身攻撃を宣伝するために出かけて行ったというから、おそれいります。

 今日、裏で創対連や他派日蓮宗と手を組むという暴挙に及んでいますが、当面の敵をたたくためには手段を選ばず誰とでも手をむすぶという節操の無い態度には、さすがに戸田先生もあきれはて、かえって馬鹿なことを言うんではないとたしなめられた一幕もありました。それ程までに、飼犬に手をかまれながらも主管は大きな立場から信徒を打つことをされずたえておられました。事実、浅井父子は、ありとあらゆる策謀の数々を試みましたが、主管の人格を信望する者も少なくありませんでした。結局、浅井の法道院のっとりは失敗におわり、自分が出ていくはめになりましたが、その時は、主管を中心に主管自らが育てあげた講中の大部分をそっくりそのままひきつれていたことは事実でした。
 
 何しろ行く直前には、子供達までも煽動しようとし、子供の勉強会が終り、いつもの通り本堂の清掃をしようとした子供達に対し“寺院は信心活動するところだから掃除などしなくていい”と命ずる程、陰険なものだったのです。主管は、浅井父子にはまったくにえ湯をのまされましたが、一緒について行った人々の信心さえ離れなければと思い、日淳上人に取り為して妙縁寺への所属替えをお願いしたのです。日淳上人も度重なる浅井の不祥事をよく御存知でしたので、また妙縁寺でトラブルをおこしてはと思い、ついに単独講中として成立させ、他の講中に害が及ばないようになされました。

 ところで、当時浅井と行を共にした法道院一騎当千の人材は今日、昭衛一家の台頭につれて少しづつ姿を消しつつあります。即ち、次第に浅井ファミリーの独裁をつよめ、功のあった実力者を次々と、けおとしていって講を私物化していったのです。とにかく妙光院を振り出しに、いろいろなものを吸収しては太った頃を見計らって外へ飛び出すという寄生虫のような生命をもつ浅井父子でした。

 ところで妙縁寺所属の講中として認可の席上、当時総監であらせられた現法主上人猊下も同座され、庶務部長であられた現総監の御主管も同座されて、指導教師は、当時妙縁寺住職であった松本、そして法道院主管の二名を日淳上人は付されました。それは法道院主管の深い慈悲と、松本一人ではどうにもならないと見透された日淳上人のお考えによったものです。

 しかるに浅井等は日淳上人の御指示を勝手に曲げ、自講中に対して、松本一人が指導教師になった旨を告げて、主管との問題で真実がばれるのをふせぐ為に、法道院と妙信講を完全に切り離したのであります。このように、自分の野心に都合の悪いことは猊下のお言葉や御指南であっても勝手に曲げたりかくしたりする一方、都合のよいことだけを取り出して講中支配の具として用いるという性癖は当時からの常套手段でありました。今日、猊下の御内意をねつ造したり経過や御指南を曲げているのも、何も今更はじまったことではないわけであります。

 このようにして、いつわりをもって講中をあざむき自分達の主導権を確立するためには講員を僧侶及び宗門と完全に隔離する必要があります。その上で、自分達をば猊下の直命を受けた指導者の如ぐ振舞う必要があります。もちろん他の法華講中の影響を受けて、真相がばれ、自分達の主導権がゆらぐおそれがあります。かくて浅井父子は、寺院及び他の講中との隔離を完全に行うとともに、自己の神格化につとめました。そのために邪魔になる法道院以来の有力な指導者を次々とおとし入れ、排除しました。

 と同時に、自ら指導教師のごとく振舞い、その権威を裏付けるために“妙光寺の中島師に教学を教わった。中島師は管長代理をしていた人であり、従って相伝の内容も知っておられた”などと猊下の御相伝云々にまで及んだのであります。

 後日、学会幹部と対決の際、浅井昭衛は“猊下の御指南が間違っているという根拠を示せ”と問い詰められて、“自分は中島師から御相伝の内容を聞いて全部知っているから間違いがわかる”と述べたそうであります。このことの証人も証拠も厳然と存在するということです。

 とにかく、日蓮正宗の歴史も猊座も、他の信徒の信仰もすべて眼中になく、ただただ自分達の勢力を増し、主導権をにぎろうという野心一色から宗内を思う存分かく乱し、身勝手をしてきたのが浅井父子であったわけであります。









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元妙信講問題について