法華講連合会に攻撃を開始

 
 このような経緯でスタートしたものですから、先行き混乱をまきおこすことは目にみえていました。もっともしばらくの間は、だれもが君子危きに近寄らずとばかり無視し、取り合わずにいたものですから表面化しませんでした。

 その後、浅井父子は、宗門・法華講とはほとんど没交渉に、創価学会の組織と活動の形式をまねて取り入れ、勢力拡大に専念しました。即ち、青年部を設けて浅井昭衛が青年部長になり、又、学会教学部をまねて研修部をつくり、つい最近までは、学会歌を会合のたびに歌っていたのであります。そして、いつの間にか規約もつくりかえ、浅井父子の独裁体制をつくり講中を家来の如く支配しました。宗門にことわりなく財務や機関紙の運営を行いました。宗制宗規によれば、法華講支部ならば当然寺院に事務所を置くべきところを、勝手に自宅を本部にしてしまい、住所を移してしまいました。組織もかってに作りかえ、後には“理事長”などという役職を作って昭衛がおさまりました。このように、形式的には学会の方式を猿真似のように取り入れながら、学会そのものに対しては、異常なまでの敵愾心と反感をもやしていました。元妙信講関係者と接触のあった法華講、学会関係者は、口をそろえ、彼らが、“いまに学会にとってかわって自分達が主導権を握る”と言っていたと証言します。ことに、戸田前会長が亡くなった後は、“これで学会も頭うちか後退だ。いよいよ自分達の番だ”とさかんに言っていたそうです。
 
 元妙信講のもう一つの特色は、宗門、寺院に対して極めて冷淡であり、その介入を極度に嫌っているということであります。浅井の論理は、“僧侶は堕落しているし教学力もなく、信心の指導は出来ない。講中は僧侶、寺院と切りはなして、自分達だけで指導し「純粋培養」しなければ伸びない”というもので、その通りに実践していました。松本日仁などは、指導教師でありながら、ていよく祭り上げられて講中の運営・指導には何の発言権も無かった事は周知の事実です。又、“宗門がお金を持てば墜落する”と称して、宗門を支えるための御供養ということをほとんど行いませんでした。宗門が信者の外護なくしては運営できないことは、百も承知していながら、浅井父子は、寺院の建設・維持は学会や法華講におしつけて、自分は日蓮正宗という名分だけを利用して将来の野心のために勢力拡大だけにひたすらまい進していたのであります。これは、同じ独自の運営形式をとりながら、創価学会が小さな集団のうちから総本山外護のため、自分達のことはなげうっても“登山会”等を運営して宗門の維持運営に誠を尽したのとは極めて対照的であります。

 宗門・僧侶を除外し、法華講を軽蔑し、そして学会に対しては敵愾心を燃やしていつかは引きずり下そうという野心をむき出しにしていた元妙信講に対して、宗門も、法華講も、もちろん学会も、正直言って変にかかわり合うことを避け、取り合わず無視して来ました。









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元妙信講問題について